第18回受賞作品
令和7年5月1日~10月31日の期間に募集した、第18回「つたえたい、心の手紙」には、合計967通のご応募をいただきました。厳正な審査の結果、以下の皆さまが受賞されました。たくさんのご応募、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
金賞
令和七年、春の息吹に満ちた三月三日のひな祭りの朝、あなたは緩和ケア病棟の病室で静かに息を
引き取りました。四十四歳という若さでした。ステージ4の肺腺がんを患い、
残りわずかな余命を宣告されながらも辛い抗がん剤治療に耐えた二年半の闘病生活の末、
まだ父親の必要な小学生の息子を遺して逝くことは、さぞ無念だったでしょう。
稼ぎの少ない妻の私に息子を託すことは、不安でしょうがなかったと思います。
あなた、あなたは闘病中ずっと自分の病状よりも自分が亡き後の私と息子の生活を心配していましたね。
「遺産を残したい」が、あなたの口癖で、あなたは断固として退職せず、通院や入院の日以外は出勤して働き続けてくれました。
また、葬儀会館で生前見積もりをして、葬儀費用を抑える交渉までしてくれました。
私は、そんなあなたの姿を目の当たりにして、胸が締め付けられるような思いでいました。
もちろん、あなたの気持ちは、本当に有り難く、心から感謝していました。
けれど、あなたが何よりも家族の未来を最優先に考え、来たるべき死から目を背けることなく気丈に振る舞えば振る舞うほど、私は悲嘆に暮れるだけの自分の弱さを痛感して、あなたに顔向けできず、言葉を失いました。
病気のあなたに経済的にも精神的にも支えられていることが、情けなくて、ふがいなくて、
あなたが一番聞きたかったはずの言葉さえ、言ってあげられませんでした──
あなた、あなたの死後、私はすぐさまダブルワークを始めたんですよ。毎日、一心不乱に働いています。
傍から見たら、喪に服していない不届き者の妻に見えるかもしれませんね。それでも私は構いません。
なぜなら一日でも早く私が自立して一家の大黒柱になることが、あなたの一番望むことだと思うからです。
あなたが病気から逃げずに最期まで家族のために生き抜いたように、私も、あなたのいない人生に立ち向かって、必ず私達の息子を立派に育て上げてみせます。
だから、あなた、どうか安心してください。あなた、いつの日も、いつまでも、ずっと、あなたのことを想いながら、強く生きていきます。
銀賞
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桜の花道
お義母さん。貴女は桜の花が満開の季節に天に召されましたね。 あの時、僕と妻は、これからはお花見の頃になるとお義母さんのことを思い出すね、と言いながら貴女を見送りました。
早いものでもうあれから桜は七度、綺麗に咲いては見事に散って行きました。
貴女の葬儀には多くの子供たちが参列してくれてましたね。そう。みんな貴女の子供たちでした。 貴女は二十歳の時に家庭環境に恵まれず、親がいない子供たちを支援する学園施設の教師として赴任したのでした。 以来二十五年にも亘わたって多くの子供たちと寝食を共にしながらも、分け隔てなく愛を注ぎ、本当の母親以上に彼ら彼女らを見守ってきたのです。
棺の中で眠るお義母さんの寝顔を見た白髪交じりの男性はお孫さんと参列し、
「先生!見てくれ。俺。孫ができたんやで。」と泣いていました。 工務店の社長さんになった男性は奥さんと二人の子供さんを伴われ、涙ながらに、「俺のお母さんや。」と紹介していました。
見えていましたか?その傍らで参列された一人ひとりに頭を下げていた若者を。
お義母さんが学園施設で母親代わりになった女性の子。 理解あるお義父さんと話し合い、養子として引取ることを決めた貴女の子です。
気丈に喪主を務めていましたよ。あの時、どれだけ多くの貴女の子供たちが集まってくれたか。
思い出すことが供養と言うけれど貴女が召された七年前のことは想い出にするには鮮烈過ぎて思い出にはなっていかないようです、あんな見事な人生は見たことがなかったから。
貴女の生き様を見て分かったことがありました。文字通り、お義母さんの人生に花を添えた幾万もの桜の花は多くの子供たちでした。 綺麗な花を咲かせるためにお義母さんが愛を注いだ満開の花。愛で満開にした綺麗な花。
そして舞い落ちる桜の花びらは幾重もの苦労を重ねるように桜の絨毯になりました。その桜の絨毯が貴女の花道でしたね。お義母さん。素敵な人生を見せてくれてありがとう。 -
あの時は、ごめんなさい
お母さん。あなたが亡くなって間もなく一年。いろいろな人から「九十六歳なら大往生だよ」
「よく面倒みたよ」と、慰められたり褒められたりしたけれど、私はひとつだけ、あなたに謝りたいことがあるのです。
九十を過ぎて、あなたに認知症の症状があらわれ始めた頃、家にこもってばかりではいけないと、二人でよく出かけるようになりましたね。
病院やスーパーはもちろん、日帰り温泉や一泊旅行。それまで忙しさにかまけて、親孝行らしきものをしてこなかったから、
私はお母さんと出かけることが楽しかったし、「親孝行している自分」に満足していたのだと思います。
そう、自己満足です。
だからあの日、日帰り温泉から帰る車の中、あなたのことを考えずに、私は、いらだちをぶつけてしまった……。
あの頃あなたは、口癖のように、
「私はバカになってしまった。何もわからなくなってしまった。早く死にたい」
と言っていましたね。いつもなら私も、
「何言ってんの。私がいるから大丈夫。お父さんだって、まだ来るなって言ってるよ」
と受け流すのに、あの時は、一番聞きたくない「死にたい」という言葉を、あなたが何度も繰り返すから、怒鳴ってしまいました……。
「いいかげんにして。こんなにやってあげているのに。何でそんなこと言うの」
壊れていく自分が、怖くて、不安で仕方ないお母さんに、私は、怒鳴ってしまいました。
二人で、車の中で、たくさん泣きましたね。
それからしばらくして、あなたは「死にたい」なんて言わなくなり、同時にいろいろなことを忘れていきました。
最後に私の名前、お父さんの名前。あなたがあなたでなくなる前に、本当はもう一度、謝りたかったのです。
「ごめんなさい。あの時は、ごめんなさい」
今、しきりに姑が「私はバカになっちゃった」と言うのです。私はきっと寄り添うから、お母さん、見守ってくださいね。 -
母の本心
あなたの部屋の鍵を返してきました。私の家から歩いて10分のお洒落な老人ホーム。
毎日会って話をして、私の家で一緒に庭仕事をしたり、買い物をしたりドライブしたり、そういう毎日が何年か続くのだと思っていたのに、あなたがここで過ごしたのはたったの5カ月でした。
静かな部屋を黙々と片付けていたら、1冊のノートが出てきました。
その日の出来事や想いなどが綴られた中に、入居して間もなく書かれたページ。
そこには「家に帰りたい。不便でも不安でも良いから、家族の思い出が溢れたあの家で、その温かさに包まれたい」と、決して口にしなかったあなたの本心が書いてありました。
ああ、そうだよね、わかっていたよ。脳梗塞の後、懸命にリハビリに励んだのは、住み慣れた家に帰りたい一心だったよね。
でも、麻痺が残らなかったとはいえ、再発の可能性が高いあなたが田舎の広い家にひとりで住むのは、あなたが思う以上に危険だったんだよ。
だから、入院中心細くなったのか「やっぱりあなたの家の近くが安心だね」と言った時、今がチャンスとばかりに入居の手続きを進めたんだ。
あなたは「手続きありがとね」と笑顔で言い、ホームに入居してからも「良いところだね、ありがとね」といつも笑顔でした。
ページの続きには「子供たちのために今の私にできるのは、ここを好きになること、ここで仲間を作って笑顔で生きること」とありました。
私ね、いつもあなたが満面の笑みで「ありがとね」と言ってくれるから、なんだかちょっとだけ親孝行してるようなつもりでいたよ。
けど、その穏やかな毎日は、あなたの私たち家族への愛と思いやりで成り立ってたんだね。
倒れる前日、親戚や友人達に電話して、「娘が毎日来てくれるし、本当に入居して良かった」と皆に話したと聞きました。
それは本心かな、それとも私の為にその言葉を残してくれたのかな。
あなたの「ありがとね」の笑顔に、私も心から言いたいよ「お母さん、ありがとね」。 -
父のオッパイと涙
父の体に異常が見つかったのは、新築の家に引越して10日目、父が80才の時でした。
主治医と専門医の連携で、7日後に肺癌末期余命3ヶ月の診断が下った。
主治医から、延命治療の提案が有ったが、父は、我が人生に悔いなし!
延命治療の必要はありませんと、言い切った。体温が平熱に戻るのを待って、父の希望通り自宅療養する事になり、その時の帰りのタクシーの後部座席から、窓外を食い入る様に見つめる父の姿が目に焼きついている。
帰宅した夜から、10畳の和室に置いた電動ベッドの横に母と私の布団を敷き、親子3人の川の字生活が始まった。
私には、父に対してわだかまりがあった。
大学受験の失敗は、高3の時の父の転勤のせいだと思っていた。
自宅療養3日目の夜、父が言った。
復員の翌年、お前が生まれた時のあの嬉しかった事。命の輝きの眩しさ、復員して初めて生きて帰った実感が湧いた。可愛くて、可愛くて、一日中お前の傍にへばりついて眺めていたものだ。
ある時、お母さんが外出した隙にお前が泣き出した。私はお母さんのマネをして、お前に自分のオッパイを吸わせた。
いくら吸っても出て来ないオッパイに苛立ち、余計大きな声で泣き出したお前に、ごめん、ごめんと畳に頭をこすりつけて謝る様子を見て、帰宅したお母さんが、何をしているの?と言って、大笑いしたっけ。
私は思わず父の顔を見た。あの気難しい仕事人間だった父が温かな笑顔で、目に涙が光っていた。
私はその時、受験の失敗は、自分の臆病さと未熟さのせいだったと気付いたのでした。
それからは毎晩、父の思い出話を聞くのが日課になった。特攻隊に志願したのは、この戦争から生還できるとは思えなかった、特攻隊に志願すれば家族に遺族年金が支給されると聞き、 せめて遺族年金を残して、最低限お母さんを守ってあげたいと思ったのだよと言った父の言葉に、こういう愛情表現もあるのかと思った。
父は、それから一ヶ月後の明け方、ICUで80才の命を終えました。
毅然とした父の生き方に、私は父に対する考え方が大きく変わった。
赤ん坊の私に、父が命の輝きを感じたと言った時の、あの涙を、私は一生忘れないだろう。
父様、沢山の愛をありがとうございました。 -
私の北極星
「私の北極星とオリオンの三つの星」
中井班長が天に昇ってから三〇年になりますね。部下であった新米刑事の私を一人前の刑事にと、刑 事のい・ろ・はを愛と職責の鞭で厳しくたたき込んで下さいました。そのお陰で私は「刑事になるのでは なく、刑事となる」の「に」と「と」との相違とその大事さを学びました。二人の唯一の共通点が「天体 好き」であったことで班長を私の刑事人生の北極星として心服しておりました。また、部下であった時 に班長の三つの言葉が私の「オリオンの三つの星」でありました。一つ目の星は「窃盗は殺人と同じ」の 言葉です。窃盗被害品の古い婦人用腕時計一個を被害者中年女性A子さんに返還した時でした。彼 女に「お母さんを取り戻して下さり心から感謝しております」と深々と一礼をされた時にこの言葉の心が 「物には持ち主の人生の思い出を宿しており、盗まれた事は宿る人生の思い出を消される事だから殺 人と同じだ」と分かったのです。二つ目の星は「被疑者の供述調書は水性ペンやワープロでなく万年筆 で書くこと」の言葉です。殺人犯B男の供述調書をペリカン万年筆で書いている時はB男は、身じろぎ もせずペン先を見つめており、書き終わると「人殺しの俺の調書をペリカン万年筆で書いてもらい刑への 腹が座りありがとうございます」と深く頭を下げたのです。B男の予期せぬ態度に私は、班長の言葉の 心が「お前の書いた調書で被疑者の人生を左右する裁判の始まりとなるから安物のペンやワープロでは 失礼だぞ」と諭していることが分かったのです。三つ目の星は「お前の刑事勲章は何か」の問いの言葉で す。その答えが、私のイタチごっこの相手である空巣のプロC男が打って変わって地道な生活を送っている 事実を見聞きした事であります。なぜにそれが答えなのかといいますと、罪つみ人びとを捕まえる事は当然の仕事だが自分が担当した罪人が社会更生をして世間に受け入れられて地道な人生を送っている現実が 私の「刑事の勲章」だからです。班長が望んでいた答えですよね。班長は天国にいても今も、私の人生の北極星です。
佳作
- 今いないあなたと約束
- 福岡県
- 金 伽耶 様
- 44 歳
- お父さん KKPしたよ
- 石川県
- 出雲 美佐緒 様
- 63 歳
- おばけになってもいいから
- 青森県
- 千田 立煌 様
- 16 歳
- 野次馬事件
- 北海道
- 続木 優一 様
- 67 歳
- コロッケひとつ
- 新潟県
- 柴野 裕治 様
- 51 歳
入賞
- 厳しい愛が起こした化学反応
- 東京都
- 田所 永里奈 様
- 33 歳
- 黒糖の思い出
- 新潟県
- 逸見 修 様
- 77 歳
- 父を赦す ― 亡き母へ届ける手紙 ―
- 広島県
- 稲田 亨 様
- 47 歳
- 辛口のカクテルに込められたエール
- 北海道
- 西尾 充史 様
- 58 歳
- 母の畑、私の祈り
- 京都府
- 古井 菜月 様
- 29 歳
- また一緒にね
- 大阪府
- 村田 喜美子 様
- 76 歳
- お饅頭
- 兵庫県
- 福田 善計 様
- 66 歳
審査員特別賞
- あんたの元気はあんたのもんだ。
- 岐阜県
- 足立 拓也 様
- 33 歳
- 空のグレープフルーツ
- 佐賀県
- 横尾 希維子 様
- 70 歳
- しわしわの手と、あたたかい声と
- 宮城県
- 八巻 孝之 様
- 61 歳
- 孤高の母
- 岐阜県
- 一柳 博之 様
- 66 歳
- 畳職人
- 埼玉県
- 奥村 由布子 様
- 52 歳
- お母さん、大好きだよ
- 神奈川県
- 伊関 明子 様
- 59 歳
小冊子プレゼント・書籍のご案内
受賞作品を1冊にまとめた小冊子を毎年1,500名様にプレゼント。
小冊子プレゼントページ
この活動を通して
「つたえたい、心の手紙」は、書くことで心の整理をする機会となる一方、読者の方からも、今ある大切な人たちと過ごす時間に改めて喜びを感じることができるという声が寄せられています。
この活動を通じて、手紙がもっている、“手紙を書いた本人だけではなく読んだ方への癒す力”“家族や友人との絆を再確認し、前向きに生きる気持ちにさせてくれる力”を皆様に少しでもお伝えできればと思います。
