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第2回受賞作品

金賞

孝行したい時に母がいた!!開く

角谷 大河 様 19歳

「孝行したい時に親はなし。されど墓に布団は着せられず」

父さん、反抗ばかりしてごめんなさい。なぜ反抗していたのか、自分でも理由がわかりません。父さんの、セメントがこびりついた両手を恥ずかしいと思い、自分が至らないことすべて、父さんのせいにしていたような気がします。

父さんが、進行性の肝臓癌で余命1ヶ月と診断されたときも、ぼくは「あっそ」と知らん顔して、強がっていました。心の中は不安でいっぱいで、「神様助けて下さい」とお祈りしていたのに、言葉にできず、5年経った今でも胸が締め付けられます。

余命1ヶ月と診断されたあの日、「いったいぼくに何ができるのだろうか」と考えました。考えても、考えても答えが見つからず、眠れぬ日々が続きました。

「何もできないけれど、素直に謝って、そしてありがとうと言おう」と思った翌日に、父さんは息を引き取りました。入院してからわずか5日で、あっけなく逝ってしまいました。父さんの黒ずんだ顔は、苦しみから解放されたような、安堵感がありました。母さんは憔悴(しょうすい)し、妹はずっと泣いていました。

父さんごめんなさい。もっともっと、父さんと話がしたかった。父さん孝行がしたかった。父さんと過ごした13年という歳月、ぼくは絶対に忘れません。

今日は父さんの命日です。妹は、父さんが他界したときのぼくと同い年になりました。母さんと妹は、ぼくが絶対に守ります。

「お兄ちゃん、私もう子供じゃないのよ!」 妹が怒っています。

「あんたに守られるほど、母さんは落ちぶれちゃいないよ」 母が笑います。

「お兄ちゃん、カッコ悪い」

最近ようやく、母さんに笑顔が戻ってきました。母さんにはやっぱり笑顔が一番です。

ぼくたちはお墓の前で大笑いしました。そして、泣きました。

父さん、ぼくは左官職人になり、父さんの後を継ぎます。あの頃と同じように、母さんと一緒に現場に出ます。

「孝行したい時に母がいた!!」 ぼくは今、とても幸せです。

銀賞

一冊のアルバムがくれた大切な想い開く

沼 志賀子 様 57歳

お母さんが亡くなって18年、お父さんはお母さんが逝ってしまった季節と同じ春に旅立っていきました。

今は廃虚と化してしまった生まれ育った家に18年ぶりに入りました。2階の本棚で“我が生涯”と記した一冊のアルバムを見つけましたよ。お母さんが亡くなって5年後にお父さんが整理してまとめたアルバムですね。“このアルバムが後何年続くかわからない。有為転変の軌跡”と表紙の裏に書いてあるお父さんの元気だった頃のなつかしい字。お父さんが中学5年生の時の学生服姿の写真。同級生6人との写真には“自分ともう一人の友だちだけが生き残った”とあります。水兵姿の若かりし頃のりりしいお父さんの写真を見て、「おじいちゃん、かっこいい! 私の好きなタイプ!」という娘の叫び声に、「どれどれ」と夫が覗き込んでいます。きっとやきもちですね。若かりし頃のお母さんとのツーショット写真には“人生の開花期”というコメント。“ないないづくしの中で長男誕生”。そして私が生まれ、昭和28年“我が家の完成”。その7年後に“庭作り”。昭和30年“土間の台所を板張りに、トイレは水洗トイレに改築”。昭和35年にテレビが来た時のことははっきり覚えているよ。テレビに足がついているのを見て、子どもたちが「へ~」とおもしろがっています。昭和37年“掃除機、扇風機ボーナスで購入。12800円なり”。そして昭和47年から写真はカラーに。私が就職で上京する時の写真には“寂しさをこらえて見送り”、私の結婚式の写真には“淋しくも嬉しい我が家の記念日”とありました。淋しそうな素振りはひとつも見せなかったのに。いいえ、きっと、その当時の私には自分のことでいっぱいで思いやる余裕がなかったんですね。アルバムの後半は孫達の写真がページを独占し、昭和62年でおしまい。

お父さん、お母さん、一歩、一歩、ひとつ、ひとつ、“我が家”を築いてきたんですね。国に歴史があるように、人にも、ひとりひとりにその人の歩んできた、精一杯生きてきた歴史があることを感じています。このアルバムを見てお父さん、お母さんの孫達も心に“何か”を感じていますよ。しっかりと“何か”を受け取っています。“何か”とは目に見えない、お金では買えない、大切な物です。

お父さん、お母さん、ありがとう。アルバムを通して感じた大切な物は伝えていきます。それが、お父さん、お母さんの命が繋がっていくことだから。

「ありがとう」おじいちゃん開く

加藤 美代子 様 48歳

おじいちゃん、天国の暮らしはいかがですか。初めておじいちゃんに手紙を書きます。

私生児で生まれ、五歳の時に母が家を出てしまい、残された私をおじいちゃんとおばあちゃんが育ててくれました。幼かった私は母を恋しがり、事あるごとに泣いたり我儘(わがまま)を言って二人を困らせてばかりいました。私が九歳の時に、母の死の知らせを受け、その翌年におばあちゃんが亡くなり、私はただ泣くだけだったけれど、おじいちゃんは悲しんでいる余裕なんかありませんでしたね。子供と孫の面倒を一人で見ることになってしまい、仕事で疲れて帰って来ても家事や雑用に追われ大変だったと思います。ごめんね、何も手伝うことが出来なくて。

中学では給食が無かったので、お昼はパンにすると言うと「あほ、パンなんかで元気が出るか」と言って毎日早起きをして、お弁当を作ってくれた。進学を考える時期になり、学費の大変さなどを思って就職を選んだ私に「あほ、高校へ行け。いらん心配するな」そう言って高校へ通わせてくれた。

結婚をして家を出た私。今度はおじいちゃん孝行をしなきゃと思っていたのに、主人の酒や賭け事で家計は火の車。孝行どころか逆にお金の無心をする始末。おじいちゃんはいつも何も聞かずにお金を渡してくれました。

何の恩返しも孝行も出来ずに、私が二十七歳の時におじいちゃんは逝ってしまった。

今の私は再婚をして平凡だけど幸せに暮らしています。おじいちゃんの次女の叔母とも仲良くしてもらっています。叔母曰く「あんたが生まれるまではとんでもない親父やったで。ちゃぶ台引っ繰り返すなんて日常茶飯事やった」

頑固で昔気質、でも私にはいい思い出ばかり残っている。心配ばかりかけて、面倒ばかりかけて、出来の悪い孫でごめんね。

まだまだ書きたいことはあるけれど涙腺が限界です。最後に全ての思いを込めて言わせて下さい。

「ありがとう」おじいちゃん。

天国のお母さんへ開く

山田 由美子 様 52歳

拝啓

フサちゃんの安らかな最期を看取る事ができてから三ヶ月が過ぎようとしています。そちらへ行ってからすぐにお父さんに会えましたか。一足先に旅立ったお父さんが必ず迎えに来てくれると信じていましたものね。

生前、フサちゃんが加入していた互助会での湯潅の儀で、私達も手伝いながら旅仕度が出来た事が、思いもしなかったので、とても良い思い出になりました。

気づくと仏壇の写真に話しかけている私の声、届いていますか。いつも傍らにいて見守ってくれている気がしています。

十五年間の介護も卒業を迎えました。愛で満ちた介護ができたでしょうか。時々「お世話になります」と言ってくれた事が何よりの喜びでした。本当に色々な事があり、言葉にできない切ない思いもしましたが、もう少し生きていて欲しかったです。でも、糖尿病・脳梗塞・認知症と体と心の自由を奪われたフサちゃんには、もう少し頑張ってと言うのは辛い事だったかもしれませんね。言葉少ない中での口癖だった「もういいよ」は「もう充分に頑張ったよ」という重みのある言葉だったのですね。

私が「フサちゃん」と呼ぶようになったのは、介護が大変になり「お母さん」と呼ぶ事が辛くなり、あなたの事を客観的に見ようと心に誓った時からですが、たまにボソッと「私はあなたのお母さん」と言われた時にはドキッとしたものです。ごめんなさいね、本当は最後迄「お母さん」と呼ぶべきだったかもしれませんね。でも「フサちゃん」と呼ぶようになってから、あなたへのいとおしさが深くなっていった事も事実ですから、どうぞ許して下さいね。

十五年の月日は大変でしたが、夫婦の絆が深まり、息子二人が優しく育ってくれた事、フサちゃんが一生懸命生きて人間の尊厳を身をもって教えてくれたからだと感謝しています。色々な事を忘れてしまっても、最期まで私達の事は覚えていてくれてありがとう。だからこれからも、私達の事を見守る事は忘れないで下さいね。

本当にお疲れ様でした。ゆっくりと休んで下さいね。

それではまたいつかお会いしましょう。

かしこ

亡き父へ開く

松川 敦子 様 52歳

「おとう!」あの日から三十八年が過ぎましたね。おとうがいなくなってから私達は、母ちゃんと、おばー(祖母)と弟二人と五人暮らしになってしまいました。おばーは寝たきりで、「自分が先かと思っていたのに、何故、若いおとうが先に逝くかー」と毎日泣くし、母ちゃんは三人の子供と寝たきりのおばーの生活をささえるため、日雇い労務へ行き、帰ってきて夕方から畑仕事に出かけ、泣いてるひまもないくらいに働き、男の人でもこんなに働かないよねーと思うくらいに働きオシャレもしない、自分の服も買わない、ただ、ひたすら働き、私達に何一つ不自由な事させないように頑張ってましたよ。

「おとう! 母ちゃんの頑張り見てましたか」

そのうち、おばーもこの世を去り、三人の子供は皆、結婚して、今では孫も、ひ孫もいます。働き者の母ちゃんは七十四才になりました。まだパン屋さんで現役で働いています。さとうきび作りも頑張ってます。先日製糖工場から表彰されたほどです。働き者の母ちゃんは、収入のほとんどを子や孫達のために使います。働き者で欲のない母ちゃんは、隣近所の方々からも好かれ、本当にやさしい母です。

私は、まだ母ちゃんに親孝行してません。これから母ちゃんに長生きしてもらい、一つでも多くの幸福を母ちゃんに贈りたいと思います。だから、おとう! 母ちゃんを見守って下さいね。だって、おとうは働いて私達や、おばー、母ちゃんに楽しい生活をさせる大黒柱だったんですよ、それを三十八年前、放棄して、母ちゃんにその役を押しつけて天国に昇ったんです。三十八年間頑張り続けている母ちゃんを見守るのは、おとうの務めだと思います。だからお願いします。天国にいらっしゃる身内の方々と一緒に母ちゃんをお守り下さい。

最後に、母ちゃんが再婚しなかったのは、「天国のおとうの事が一番好きだから」だと話してましたよ。おとう、嬉しいでしょう。おとうの笑っている顔が目に浮かびます。

もう一度だけ開く

松川 千鶴子 様 54歳

じいちゃんに会いたい。じいちゃんのゴワゴワした手を握らせて欲しい。

じいちゃんは、何でも見通していた。幼い頃、お母さんに連れられ、何度か田舎に帰る度、じいちゃんは、じっと私を見つめていた。見開いた目には、薄っすら涙があった。

無口なじいちゃんは、「よう帰って来たなぁ。大きなったなぁ」なんか一言も言わず、唯、「川へ行こう」とだけしか言わなかった。川釣りが好きなじいちゃんは、私を車の助手席に、まるで荷物を載せるようにポイッと乗せ、デコボコの農道を突っ走った。私が横で、助手席から転げ落ちようが、ひっくり返ろうが、じいちゃんは、怒ったように前を向いたままだった。本当は、私、怖かったんよ。じいちゃんは、何かで私に腹を立てていると思って……。

川に着いても、何も話もせん。じっと、じいちゃんは、糸を垂れ、私はじいちゃんの横に座っているだけ。幾匹か釣ったら、同じように無言で家に戻った。

そんな事を繰り返し、私が十二才になった時、また、いつものように、じいちゃんに川に連れていってもらった。もう、その頃には、じいちゃんの寡黙さに慣れていたから、あまり気にも留めなかった。ところが、じいちゃん、川に入ってから、私の方を振り向いて、初めて口を開いた。「辛抱せえよ」。目には、涙がいっぱい溜まっていたね。

お父さんに先立たれたお母さんは、私を連れ、再婚した。私は、厄介者だった。いつも部屋の隅で下を向いていた。目立たないように……。

じいちゃんは川から真っ直ぐ私の方に来て、私の瘤(こぶ)だらけの頭をそっと、撫でてくれた。じいちゃん、その時初めて気が付いたよ。じいちゃんが私を不憫(ふびん)に思ってくれていると。じいちゃん、ありがとう。ほんまに無口やから、分からんかったよ。今もはっきり覚えている。じいちゃんが私の方を振り向いた時の顔。私、辛抱したよ。だから、もう一度だけ、頭を撫でて欲しいよ、じいちゃん。