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第4回受賞作品

金賞

とうちゃんへ開く

久保 美優 様 10歳

とうちゃん、今、どこにいるんですか。美優と姉ちゃん、母ちゃんは、毎日とうちゃんが帰って来るのを、いのっています。

とうちゃんといっしょにやっていたサッカーを、きちんとやっています。リフティングや、パス回し、など、いろいろ教えてくれたね。すごく、うれしかったよ。今は、とうちゃんの写真を見たり、いろいろと、思い出しているよ。

みっつさんも、消ぼうの人達もみんな待っているよ。サッカーのみんなも、かんとくも、たくさんの人が待ってるよ。だから、早く帰って来て。

今は、夏休み中だよ。今年は、ももちゃんや、東京一家がせいぞろいするんだよ。

学校の先生も、小鎚のばあちゃん達も毎日待ってるから。いつも、とうちゃんが帰って来るのを、待っているから。気をつけて、安心して帰って来てね。

毎日、帰って来るのを、待っています。だから、早く帰って来てください。みんなが待ってるから。これからも、とうちゃんが帰って来るのをいのっています。

※金賞を受賞した「とうちゃんへ」には、久保美優さんの伯母様のお手紙が添えられていました ので、併せてご紹介いたします。

作品同封の伯母様からのお手紙

初めまして。私は久保美優の伯母です。本人がどうしても作文を書きたいとのことで、あて名などを書くのを手伝いました。美優が気持ちを出せる機会があったことに感謝しております。

美優は、3月11日の東日本大震災で父親が消防団員として活動中に行方不明となり、半年が過ぎてくると、父親がもう帰ってこないだろうという不安が強くなりつつ、その気持ちをどこにも表すことも、ぶつけることも出来ずに不安定な生活をしています。私が買った雑誌にこの募集が載っていたので勧めてみました。まとまりのない文章ですが、父への想いを精一杯にぶつけてみたようです。

人間、愛する人がいなくなることへの不安はありますが、幼い美優には理解するのにまだまだ時間がかかると思います。しかし、このように書いて表すことが出来ることで、ストレスが少なくなるのかも知れません。感謝しております。ありがとうございました。

銀賞

父さん ありがとう開く

柘野 茂樹 様 67歳

父は存命なら、今年九十三才である。父は今から六十七年前、二十六才の時に病で亡くなった。私が生まれて六十日目の事だった。母は父の死後、実家へ帰ったと聞いた。私には父母への思いはあるが、思い出は無い。父が生前勤めていたM銀行に私も勤めた。祖父母が大いに喜んでくれたのを思い出す。今から四年程前、私は定年を迎えた。身の廻りのものを整理しようと本棚から取りかかった。表紙の無くなった、スリ切れた父の日記が出てきた。銀行へ就職が決まり、「勤務地へ赴任する日の両親との別れ、思い」、「やはり大学へ行きたかったとの思い」……等、心情が吐露されている。すごい達筆で、文章力も素晴らしい。また、母と見合いをし、そして結婚。その喜びに溢れた頁を嬉しく、微笑ましく読んだ。「おやじ!良かったな!」と言ってあげたくなった。昭和十八年九月のある日、

「妻 みごもるという。 あめつちの めぐみをかんず。 わが子 みごもるという。 神々しきぞ。」

とある。私の事だ……父はこんなにも私の誕生を喜んでくれたのだ。涙が溢れた。父の息吹きを感じ、仏壇にお線香をあげ、「父さん ありがとうね!」と呟いた。この日から十ヵ月後、父は逝った。私を抱く事はあったのだろうか……。

私は、父と同じく見合い結婚し、最高の伴侶を得た。二人の息子を生み、立派に育ててくれた。人の子の親となり、父の心情を思う。「父さん、辛かったね。もっともっと生きたかったね」としか言ってあげられない。父の三倍近くも生き、素晴らしい伴侶と子供達に恵まれ、幸せに今あるのは、父さんあったればこそです。

ただただ、「ありがとう」と父の仏壇に声をかけている。これを書いた日は、六十七回目の父さんの命日です。やすらかに――。

今までありがとう開く

海上 千佳 様 46歳

その時、おっとうの頭に浮かんだことは何だったろうか……。きっと広と直のことかな。

苦しかったよね。悔しいよね。一ヵ月以上も見つけてあげられなくてごめんね。でも私たち三人は、おっとうの顔がはっきりとわかりましたよ。

おっとうの生まれ育った南浜町は全て無くなってしまったよ。

どうして?いつものおっとうは、冷静に物事を判断できる人なのに……。家族想いのおっとうだから、必死に家に戻ったんだね。

「定年になったらいっぱい旅行しよう」って言ってたくせに……。私一人で旅行してもつまらないよ。仲良く歩いている夫婦を見ると悲しくなる。どこにいても目立つ、あの大きなクシャミは、とても嫌だったのに……。今ではとても懐かしい。さみしい。

冗談で「広済寺のお尚さんに戒名をつけてもらいたい」なんて言ってたけど本当にそうなってしまったね。何にでも全力投球だったからたくさんの人達がお別れに来てくれましたよ。信金やボート協会の方々に支えていただき今日まで来ました。そちらの世界でも、きっと皆のリーダーになっているのかな?

「こんな時、おっとうならどうするだろうか」これからもずっと、私達三人の人生の指針となってくださいね。

たった一つ、津波に勝ったおっとうの腕時計。おっとう愛用のその腕時計は、毎朝直之と学校に行っていますよ。

二十一年間本当にありがとうございました。またいつの日か、会える時まで……。さようなら。

妻への手紙開く

倉谷 政次 様 91歳

お前が逝ってからもう十ヶ月を迎えようとしている。逝く時は二人一緒に逝こう、と約束をしていたのに、お前は私を残してあの世へと旅立った。残された私はあまりにも辛く悲しい毎日を送り続けている。お前との約束を守らずに生き続けている自分に耐えられぬ程の嫌悪感を覚えるようになってきた。朝、目覚めると、いつも側に居たお前が居ない。また外出先より帰った私を出迎えてくれるお前はもう居ないのだと思うときの私は、心の方向性を失い、只茫然として胡蝶の夢の中に居る。毎日毎日、何故逝った、何故、何故なのだ、との繰り返しの中で生きている。夜は睡眠薬無しには眠れなくなった私は、或る医療関係の人に、睡眠薬を一度に何十錠も呑んだら目覚めることなく、安らかな死を迎えるのでは、と尋ねたら、その人は、現在の睡眠薬は、いくら多量に呑んでも決して死なないように造られている、とのことであった。嗚呼、私の心は複雑に揺れた。

最近よく樺太(からふと)のことを思い出す。お前と共に過した樺太は、二人の青春の場でもあった。お前が存命中はよく二人で樺太を語り合った。まるでドラマを見るようにいろんなことを思い出し乍(なが)らのそれは盡(つ)きることは無かった。あの敗戦直後の大混乱期を二人ともよく生きぬいて来たものだと改めて思い出す。ロシア軍による略奪であらゆる物を失った。戦時中の物資の無い時代、二人の結婚式に、せめて人並のものを持たせたいとお前の母が苦労して用意した衣類の総てを略奪され、泣き伏したお前の姿。また、日本軍のスパイ容疑で逮捕された私は投獄され、そして死刑宣告を受けた。紙一重の差で無罪となり帰宅できたが、突然連行され行方不明となった私を、お前は毎日毎日探し求めて彷徨(さまよ)い続けていたことを知り、あまりにもお前が不憫(ふびん)で胸の痛みにやっと耐えていた。

老いた私はお前の側に逝くのも間もないであろう。再会を信じ暫しの間待ってくれるよう願っている。

父の決断開く

吉野 郁子 様 68歳

思えば、母さんの認知症が酷くなったのは九十歳を過ぎた頃からでしたね。私達家族は誰も分からない所でボロボロでしたが、それよりも隣のベッドで父さんは、毎日どんな思いで母さんを見つめていたことか……。

そんな時でした。孫の春ちゃんが「もう在宅介護は無理だよ」と、一枚のパンフレットを持って来てくれたのです。最後まで我が家でと決めていた私にとって、考えてもみなかった「老人ホーム」。父さん、正直いって私ももう若くはなく、夫との定年後の人生を夢見て、心動かなかったと言えば嘘になってしまいます。悩んだ末「やめよう」そう決めた時、知らないはずの父さんが「俺がついて行くから心配するな」と、お腹の底から振り絞った声で二度も言ったのでしたね。年甲斐もなく泣きじゃくっている私の前で、父さんの決断はびくともしないものでした。その時、父さんは九十四歳。その歳にして大きな決断をした父さんの胸中を思うと、今でも涙が止まりません。

それから……父さんがホームで母さんと過ごしたのは、わずか二ヵ月……余りにあっけなく旅立ってしまいました。その日から、あの時の父さんの声だけが耳に残って離れずに「もし、やめていたら……」自分を苛(さいな)むばかりの日々でした。でも母さんは、会いに行く度に驚くほど変わっていて、あの頃がまるで嘘であったかのように、穏やかにみんなと手を叩いて童謡を歌っているんですよ。そして、にっこり笑って私のこと「どちら様」なんて言うんです。

父さん、空の上から毎日ヒヤヒヤして私のこと見てたでしょうね。でも、もう大丈夫。母さんと私達のために、人生最後の大きな決断をしてくれた父さんの心を決して無駄にしてはいけないと、誓いました。

三回忌のお墓参りには、父さんの好物の羊羹(ようかん)を持って元気に会いに行きます。待っててくださいね。

改めてありがとう開く

尾花 松五 様 46歳

今さらながらだけど、本当の親子になりましたね。あの時、僕は小学六年で弟はまだ二年生。そんな家族の父親に、あなたはなってくれました。僕は幼く、有り難いことを素直に表現できなかったけど、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

「おじさんはお母さんと結婚するし、君達とも結婚するんだよ」

って言ったこと、覚えてますか。当時は変なこと言う人だくらいに思っていたけど、今となってみると一番記憶に残っている言葉です。以来、あなたに妙な対抗意識をもってか、必要以上には口を開こうとしなかった。母親の情を奪われるのを恐れ、弟がなつき始めたのも面白くなかったのだと思います。

あなたに初めてお礼を言ったのは、母がリウマチで入院した時でした。うちには電話がなく、アパートの下の赤電話の前でもじもじしていると、ポケットから出してくれた十円玉。さらうように、生あったかい硬貨を入れて母に電話をかけました。気を遣ってくれたのか、その場をそっと立ち去り、戻ってきたのは電話が切れそうになった頃。たくさんの十円玉を置き、あなたは部屋に戻りました。拗(す)ねていた自分の気持ちが平手打ちされたような気がして、僕は初めて「ありがとう」と言いました。

母の病気が小康状態になった頃、脳梗塞で倒れた父さん。

「しびれが俺に移ったよ。おまえはきっと治るから安心しろ」

そんな言葉を残して旅立つなんて。今は悔しくて仕方ありません。もっと色んな話しをしておけばよかった。僕達を大学まであげ、社会人になるまで育ててくれたのに、家族の面倒を見てくれる人を長い間認めてなかったなんて。恩返しもできてない。昼夜を問わず働きに出ていたから、なおさら面と向かうことが少ない親子だったけど、全身全霊で家族になってくれた父さん。今になって言うのも恥ずかしい。

父さんになってくれてありがとう。心からありがとう。