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第5回受賞作品

金賞

愛するあなたへ開く

鈴木 和子 様 56歳

秋になり、風に揺れるコスモスを見ると、無性に寂しくなって涙が溢れます。秋が深まり、落葉の山を踏みながら、病院に通ったあの時の事。今でも、忘れられません。

ある時「夕べ、看護婦さんに手を握ってもらった」と言っていたあなた。不安だったんだよね。寂しかったんだよね。病気に押し潰されそうになっていたんだよね。でも、お互い口に出したら、崩れそうになるから、つらく、悲しい気持ちは、心の奥に押し込んで、ただ、ただ、前を向いて頑張るしかなかったんだよね。

私は、毎日、同じリズムで、職場と家庭と病院との往復。あなたが良くなる事を信じて頑張ってきたんだよ。涙を流すと、心が折れそうになるので、あなたの前でも、子供の前でも、涙は流さず頑張りました。

一周忌が済んで、すぐあの大震災。私も津波にのまれ、屋根の上で一晩過ごし、命びろいしました。あの夜、澄み渡った満天の星空を見ながら、あなたを思い、子供達の事を思って頑張りました。あなたが残してくれた家。泥塗(どろまみ)れになりましたが残りました。子供達も無事でした。あなたが守ってくれたんだよね。ありがとう。

本当にあなたは、人を思い、だれにでも親切でやさしい人でした。周りの人にも恵まれいい人生でしたね。亡くなってからも、あなたを忘れずにいてくれる人が、たくさんいらっしゃいますよ。その方々に、助けられながら私達は生きています。

生きるという事は、つらい事も、悲しい事も沢山あります。でも、それ以上に、楽しい事や嬉しい事が沢山あると信じて、あなたの分まで、頑張って生きていきます。

毎朝、あなたの写真に向かって、お話ししていますが、煩わしいと思わず聞いていてくださいね。

亡くなっても、まだまだ、あなたの事を愛しているんですよ。届いてますか。この気持ち。合掌。

銀賞

父への詫び状開く

石川 美津江 様 64歳

父さんがあの時死んでしまうと予想できたら、どんなに病院の先生に反対されても、きっと家に連れ帰ったのにと悔やんでいます。

いつに無く「家に帰りたい!」と言った父さん。私も母さんも家に帰るのは無理だろうと反対しました。父さんは肺炎になっていて、無理して家に帰って症状が悪化するより、病院で治療を続けて、治って欲しかったのです。

でも帰れないと思った時から元気がなくなり、病院から連絡を受けた時はもう危篤。意識の無い父さんの冷たい手を握り締めて、私は何度も「家に帰りたかったんだね、自分の最期を感じて家で死にたかったんだね……、連れて帰らなくてごめんなさい。私を許して!」と、心の中でくり返し謝りました。

父さんの死に母さんはがっくりときて、急に弱くなりました。父さんのお葬式だってちゃんと出ているのに、父さんがまだ生きていると思って「父さんのご飯の支度をしなくちゃ」と言います。「父さんは死んだよ」と言っても「そう?」と、聞き返して又少し経つと「父さんのご飯の支度をしなくちゃ」と言います。父さんの死と入れ代わる様に、母さんの認知症が始まってしまいました。

父さんの死と母さんの認知症……、まるで悲しみの二重奏の様です。でも母さんの中ではまだ父さんが「生きている!」のですから、とても感動的です。体の具合も悪いので、父さんと同じ病院に入院させました。いつでも父さんの事を心配して「ご飯の支度をしなくちゃ」と言って、周りの人の涙を誘いました。

労(いたわ)り合って「いい夫婦」だったのですね。そんな母さんも、父さんが亡くなってから三年後に亡くなり、父さんの所に旅立ちました。

きっと天国で再会して仲良く暮らしている事と思います。最期の時を家で迎えさせてやれなくてごめんね。父さん母さんの様に私達夫婦も、仲良く生きていきたいと思います。

世界で一番可愛い娘より開く

上岡 玲美子 様 18歳

私は今、無事に念願の第一志望の大学に入学して、一人暮らしをしてるところだよ。

お母さんは中学までの派手だった私しか知らないから、きっと今頃ギャルになっていると思ってるかもしれないけど、私変わったんだよ。

お母さんにあんなに切れと言われても、絶対に切らなかったロングヘアは、今ではバッサリショート。周りからは短い方が似合うと言われるから、もっと前から言うこと聞いていればよかったかな。

見た目は随分おしとやかになったけれど、にぎやかな性格は変わってないよ。中身はお母さんの知っている私のまま。でも、私は常に明るく振る舞っているけど、実は傷つきやすいこと、お母さんだけはわかってくれたね。

辛いことがあったとき「大丈夫」と言うと「大丈夫って言ってる時はいつも大丈夫じゃないじゃない」と言って抱きしめてくれたよね。

大学で一人暮らししてる子が「お母さんに会いたい」「お母さんのご飯が食べたい」って言うんだけど、それは実家に帰ったら叶(かな)う願いで。

私には、実家に帰っても叶わない願いだと、わかっていてもお母さんに「今度オムライス作って!」とメールしてみる。もちろん、届かない。電話もかけてみるけど、やっぱりつながらない。

涙が出るだけだから、もうするのやめたけど。この手紙だけは見ていてくれてるといいな。今、全然大丈夫だけど、お母さんにまた抱きしめてもらいたいよ。

そういえば、お母さんはいつも私のことを「世界一可愛い」と言ってくれていたよね。あの頃は「もっと可愛く産んでほしかった」と文句を言ってしまってごめんね。

お母さんの言っていた可愛いは顔だけじゃないんだよね。私も子供を産んだらわかるかな。私も、将来世界で一番可愛い子供を産んでみせるけど、お母さんの中で世界で一番可愛い子はいつまでも私でいさせてくれる?

大好きなお母さんに世界で一番可愛いと言われて、私は幸せだよ。こんなに幸せな娘として産んでくれてありがとう。

天国の姉ちゃんへ開く

平野 好 様 70歳

会いたい、姉ちゃんに会いたい。

なんでそんなに早く逝っちゃうんだよ、そんなのないよ。乳癌(がん)が見つかり入院して一ヶ月だよ、俺、東京へ行ける訳ないこと知ってるよね。ごめん俺、怒ってないから。でもただ悔しい。姉ちゃんにつたえたいことあったのに。

姉ちゃんって弟の俺のことばかりいつも心配してくれてたよな、自分のことは後回しにして世界一やさしい姉ちゃんだった。

父ちゃんが早死にし、母ちゃんは俺たちのため、昼も夜も働き、姉ちゃんが俺と妹たちの面倒を一切見てくれてた。

俺は体が弱くチビだったから小学校の五年まで砂利道をいつも手をつないで、俺、恥ずかしかったけどうれしかったよ。

俺が中学を出て東京さへ就職する時、三年前から都会で働いていた姉ちゃんが上着から下着まで、少ない給料を貯めたお金で買って送ってくれた荷物の中の手紙を読んでた母ちゃんが「ゴメンよ、勘弁(かんべん)ナ」って泣いていた。

その母ちゃんも亡くなり姉弟妹(きょうだい)だけになってからも結婚した姉ちゃんに会いたくて毎月のように行き、そうそう決まって帰りのバス停で「お金あるの」ってもう大人なのに。

それから何年か経ち俺が病の後遺症で重度の障がい者になって田舎へ帰る時「代わってやりたい」って号泣、心配の掛け通しだったね。

今、思えば姉ちゃんの人生の半分は駄目な弟の俺のために、そう思うと心が痛いよ。

時は流れ、姉ちゃんは自分の体の異変に気づかず癌に奥深く蝕(むしば)まれていたんだね。それなのに俺は動けず会いに行けなかった。

もう一度でいい、姉ちゃんに会いたかった。

姉ちゃん、俺、七月に甲状腺癌が見つかったんだけど姉ちゃんに知られずによかったよ、また泣かれるからさ。

俺、姉ちゃんにつたえたかったことを今まで照れくさくって言えなかったけど、天に向かって叫ぶね。「大きな愛を、ありがとう」

抱っこして開く

大野 かほる 様 74歳

兄の子どもたちの母親代わりとなり、家事を引き受けてきたお母さんに起こった異変を知らされ、「ああ、ついに」と心が震えました。夫や子どもたちに納得してもらい、あなたを迎えに故郷(ふるさと)へ帰りました。いくら娘や孫たちの中で暮らすとはいえ、八十歳近くなってから遠く知らない町で暮らすのは、大きなとまどいがあったことでしょうね。我が家に来てから、お母さんの認知症はだんだん進行して、二年後には食べることも排泄も睡眠も、色んなことがおかしくなっていました。

ある夜中、私は寝不足な体を励まして、お母さんのおむつを取り替えました。私より重いお母さんの体を横向きにして濡れたおむつをはずす時、私の動作が荒っぽかったのを覚えていますか。私が内心ハッとしたとたん、お母さんが「まあ」と小さい声で言ったのです。「まあ乱暴な」と言われたように思えて、自分を恥じながら丁寧におむつを替え終わりました。あの時は本当にごめんなさい。

またある日、お母さんは食事の後すぐ何か食べたいと騒ぎだしました。「もうちょっと待ってね」となだめていた時、お母さんはいきなり「抱っこして」と言ったのです。私は内心ドキッとしました。親が子どもに抱っこしてほしいと言うなんて、思ってもみなかったことですもの。今の私なら、自分の膝の上に座らせて「抱っこ抱っこ」と抱いてあげたでしょうに。その時の私は、びっくりするやら、てれくさいやらで、お母さんがしつこく要求しなかったのをよいことに、とうとう抱っこしませんでした。本当にごめんなさい。淋(さび)しかったでしょう。

お母さんの「まあ」と「抱っこして」は、生涯忘れられない言葉となりました。

その言葉を胸に、今、お母さんに会いに行くような気持ちで、近くの老人施設へ行っています。紙芝居をしたり、歌を歌ったり、遊んだりして過ごします。皆さんの笑顔がお母さんの笑顔と重なって、幸せを感じるのです。

お母さんありがとう開く

根津 ひとみ 様 32歳

いつもの道を行けば、いつもの景色、いつもの家が、そして、「おかえり」と言ってもらえるような気がしてなりません。

三月十一日の大地震でお母さんは、天国へと逝ってしまいました。本当だったらいつものように「地震怖かったね」と長電話をしていたよね。一年以上の月日が過ぎていくけれど、この思いはきっとかわらないのだろうね。

お父さんは、あの濁流の中、お母さんを離さなかったんだよ。お母さんがお父さんだけでも生きてと、お母さんがお父さんを生かしてくれたのだと思っています。

でも、お母さん心配しないで、お父さんはお姉ちゃんの家にいるからね。姉妹、仲よくお父さんを支えていくからね。

悲しくて辛くなったら空を見上げるよ。子供達には、じいちゃんのようにたくましく、ばあちゃんのようにやさしい人になるんだよと話しているよ。

お母さんが私達を育ててくれたように、しっかり子育てするからね。天国から応援してね。

もっといっぱい話したかった。もっといっぱい色々なこと聞きたかった。もっといっぱい親孝行したかった。そして本当は、生きているお母さんに言いたかった。「お母さんありがとう」と。