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第9回受賞作品

平成28年5月1日~10月31日までの期間に募集しました、第9回「つたえたい、心の手紙」は総応募数1,369通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。
今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。

金賞

該当者なし

銀賞

感謝とお詫びで─開く

滋賀県 71歳 上西 加代子 様

日本が戦争に負けていなかったら朝鮮で親子六人それなりに平和な暮らしが送れていたかもしれない。引き揚げて裸一貫からのどん底の苦労、そして私は生後一ヵ月にも満たず、「今ならこの子は目が見えてない。

そっと海に流してやりなさい」と、周囲の人達から言われて、「この子の命あるところまで連れて帰る」と、父と母は過酷な苦労をいっぱいねじ伏せて私達を育ててくれた。生き地獄の如く苦しくても心は常に豊かだった。父と母は息を引き取るその時まで、他人さまはむろん私達にも「怒る」ということを決してしなかった。私の想像ではあるが、荒狂う波しぶきの中、やみ船で親子六人無事日本の地を踏めたことが最高の感謝、これ以上の幸せはないと、ひたすら頑張ってくれたのだろうと思える。故にこうした人間像として人様から尊敬されていたのだろうと思っています。

母は、十五才までに両親を亡くし、十八才で結婚、異国の地朝鮮で終戦を迎えた。

私は今も尚、詫びても詫びても涙が溢れます。涙で浄化しようとしているのです。反抗期の時とはいえ、私は言ってはならぬ大きな罪を犯してしまった。「なんで私なんか産んでくれたのよ。引き揚げる時、海に捨ててくれて良かったのに」と。母の無言でぞっとするような悲しげな後姿。「本当に本当にごめんなさい」。

母は「私の葬式の準備して─、ありがとう幸せだった」と、危篤状態にあり乍(なが)ら、酸素マスクを引っ張って最後の力をふり絞って私達に頭まで下げてくれた。私はなす術もなくただ号泣していた。

どうして最後の最後までそれ程まで毅然としていられたのでしょうか、我が母は。人様に迷惑をかけず、真面目に自分なりに頑張って生きれば、「神様は見守っていて下さる」と。父と母の背中から私は、人生最も大切なことを学んだ。これ以上の宝物はないと確信している。

今日もパタパタ開く

東京都 55歳 宮島 英紀 様

あれから四年……君は一人に慣れたかい? 僕はいまだに淋しくて、ポストをのぞきこむ毎日だよ。ひょっとしたら、君からの手紙が届いているのではないかと思ってね――。

交際をはじめた頃、僕たちは互いに出張で忙しく、なかなか逢えずにやきもきしたよね。メールなんかない時代。駆け出しのふたりには、公衆電話の遠距離通話代金が重荷で、いつしか手紙を出しあうようになっていった。手紙といっても、おいしいケーキ屋を見つけたとか、次のデートで行きたい場所とか、雑談のような内容だったけど、君からの手紙にはいつも季節にあわせた花の切手が貼られ、便箋には可愛いイラストが添えられていたよね。そんな小さな心づかいが嬉しくて、僕はますます君に夢中になっていったんだ。

手紙の習慣は結婚してからもつづけられ、誕生日や結婚記念日、年賀状や暑中見舞い、夫婦喧嘩の詫び状など、折あるごとに互いに手紙を書いて、わざわざ投函したね。僕は「そろそろ君から来る頃だな」と思うと待ちきれなくなり、サンダルをパタパタ鳴らして何度もポストをのぞきにいったものさ。

僕が仕事で大失敗をして、解決のために二週間近くも会社へ寝泊まりして作業しなければならなくなったときのこと。君から僕宛の手紙が会社に届いた。封を切ると便箋に、「きっとうまくいく!」と、大書きされていた。身も心もボロボロだった僕に、その一文がどれほどの勇気を与えてくれたか。君が女房でいてくれることが誇らしく、心から感謝した手紙だったよ。

でも、それからしばらくして君にガンが見つかり、ふたりの暮らしは一変してしまった。君の衰弱は目に見えて激しく、僕も看病に追われて、手紙を書くどころではなくなった。君も伝えたいことがいっぱいあっただろう。あんなにたくさん手紙をやりとりしてきた仲なのに、大事なところで馬鹿だよね。

天国へ行ってから四年だよ。そろそろ一通くらい書いてくれてもいいんじゃないか? ありえないことだとわかっているさ。でも、ひょっとしたらと思うんだ。もう一度だけでいい。君の言葉に触れたくて、今日もポストをのぞきにゆくよ。

開く

富山県 68歳 加納 泰子 様

「運転手さん、ちょっと止めてくれんけ」。四十年前、そう言って花嫁を乗せた車を、橋の手前で止めたのを覚えていますか、お父さん。そして花嫁の私に、「この橋を渡ったら、もう帰ってこられんがだぞ。今ならまだ間に合う。後の事なら何も心配しなくていい。もう一回、考え直してみられ。子供の事を心配しているがやったら、なぁに、子供の一人ぐらいなんとかなるちゃ。お父さんも、お母さんもまだ元気や。大丈夫育てていけるちゃ」。

あの時、本当は戻りたかった。彼とは育った環境の違いからか、すでに価値観のずれに悩み、その家族と何度も会っているうち、一緒に生活していくことへの苛立ちを感じていました。でも、私のお腹の中の小さな命から、自分の都合だけで父親を奪ってはいけないと思っていました。だから、「このまま行ってもいいがか? 本当にそれでいいがやね?」
と、念を押すように言ったお父さんの言葉に、「うん」と頷き橋を渡ったのでした。

緩いカーブを描いた橋の上から、彼の家が見えました。花嫁を迎える為に張られた紺色の幕を目にし、もう後戻りはできないと思いました。そして、お父さんの言葉が笑い話になるように努力しようと決意(おもい)を新たにしたのでした。

でも、だめでした。嫁は誰でもいい。都合の良い時に利用さえできれば。彼や彼の家族のそんな当たり前をどうしても受け入れることができませんでした。そして、二人の子供が自立したのを機に、私は誰にも言わず一人で二十五年前に渡った橋を返(もど)りました。

お父さんが末期のガンで入院したのは、それからちょうど一年後でした。何も知らない筈のお父さんが私の顔を見るなり「あんた、良い顔になったね」と。その嬉しそうな和らいだ声を耳にした途端、涙が溢れ止まりませんでした。そして「過ぎた事は、もういいちゃ。あんた、良い勉強したね。でもけんか両成敗やぞ」と言って、後は何も言わなかったよね。

お父さんとお母さんが逝って十四年。私も四捨五入したら七十です。後どれだけかしたらお邪魔します。その時は、例の口調で「バカヤロウ、男が男をみたらわかるがやと、あれだけ言ったやろう」と、思いっきり叱って下さい。

お父さんの娘より

たった一年間の先生だけど開く

福島県 51歳 塩田 陽子 様

先生の優しい声が、今も耳に残ります。

「次の同窓会を早くやってちょうだい。私、間に合わないかもしれない」。

何を言ってるんですかと、みんなで大笑いしたのが、つい昨日のようです。先生が担任だったのは、私が小学一年のたった一年間だけ。しかし先生のおかげで、長い学生生活の良いスタートをきることができました。

入学式の日、私の母は入院中でした。晴れ着を着たお母さんと新入生で、教室がどんどん賑やかになっていく中、私と父は壁にへばりついたままでした。その時、スーツを着たおばあちゃん(すみません、私にはそう見えました)が
「お母さんから聞いてますよ。さあここに座りましょうね」
と声をかけてくれました。その人は私を座らせると、そのまま教壇に立ったのです。幼稚園で若い女の先生に慣れていた私は、とてもびっくりしたのを覚えています。そして帰り際には父に
「まもなく遠足がありますが、お父さんはご心配なさらないで下さい。お弁当は私が作りますから」
と言って下さいました。ひょうきんな先生の人気は絶大で、二組ばかりいつも大声で笑っているので、他のクラスの子が何度も覗きに来るほどでした。そんな先生の作ったお弁当が、みんなにうらやましがられたのは言うまでもありません。ぶ厚い卵焼きと、真っ黒に海苔が巻かれた、爆弾のようなおにぎり。私が一生忘れられないお弁当です。

先生の訃報が入りました。やはり間に合わなかったと後悔しました。喪主は先生の一人息子。単身赴任が長く、母のそばにあまりいてやれなかったというその顔は、先生とそっくりでした。もうそれだけで十分親孝行ですよね。どれだけ長く付き合ったかではなく、どれだけ深く心に入ってきてくれたか。大事な種を植えつけてくれた先生でした。

なっ子へ開く

静岡県 70歳 石川 賢勇 様

「ばあばは、どこに行ったの」。なっ子を送った夜、航羽(こう)と遺影に手を合わせた時、突然そう言われた。俺は一瞬、言葉を失った。「ばあばは遠い空のお星様になっちゃった」。そう答えるしかなかった。

それから毎晩、航羽(こう)はベランダに出ては「ばあばのお星様におやすみをしよう」。それが日課になった。

長男で両親と弟二人が居る家に二十二才の若さで嫁いだなっ子。ずっと苦労の掛けっ放しだったのに、いつも笑顔で「おかえり」そう言って帰りを迎えてくれた。本当に俺はなっ子と結婚して幸福だった。

三人の子供に恵まれ、老後は二人で楽しく過ごす筈が癌が見つかり、「これが私の運命ね」そう言ってあっという間に逝ってしまったなっ子。俺はただ泣く事しか出来なかった。

仕事や家事全てをやる事になって、こんなにも大変な事を毎日していたんだと実感した時、何も手伝いもせず本当に申し訳なくて、でももう詫びる事も出来ない。

今は息子達も結婚し、芹里(せり)と柚希(ゆずき)も俺の部屋に遊びに来るので寂しさは無くなった。

ゆらが三才の盆の夕暮れに皆で迎え火を焚いた時、火が消えてもゆらが一向に動こうとしない。我々が家の中に入ってからもずっと火元を見たまま座っている。廻りも暗くなったので行ってみると、「ばあばが帰って来ない」泣きながらそう言っていた。迎え火の意味を話してあったので、なっ子が帰ると思い、ずっと待っていてくれたのだ。

なっ子、こんな素晴しい宝物を残してくれて本当にありがとう。だけどもう一度なっ子の笑顔が見たい。もう一度なっ子に会いたい。

なっ子へ

佳作

白いベンチで待っていてね 小森 淳子 様
いい髪だ 神田 和子 様
父ちゃんへ感謝 前田 玲子 様
僕にも「ありがとう」と言わせてください 吉﨑 邦生 様
日出子よ有難う 秋元 武夫 様

入賞

Anniversary Flower(アニバーサリーフラワー) 亀山 紀子 様
ひいおばあちゃんへ 河合 優菜 様
約束のウィスキー 小岩 弘子 様
三男から四男へ 福島 拓朗 様
トップバッターで旅立った君へ 鈴木 晴彦 様
頑張れし、気をつけろし 内藤 久仁子 様
とてもとても、とても幸せでした 荒木 光弘 様
母 キヨちゃんへ 福本 美千代 様
好青年から老紳士へ 岸本 玄樹 様
ふたりで一緒に。 窪田 香織 様
おばあちゃんの魔法 和泉 真弓 様
あなたからのプレゼント 田中 和子 様
命日の味ご飯 杉浦 美紀 様