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「家族や、今は亡き大切な人との“絆”」を再確認しませんか?

「鉄拳」×「つたえたい、心の手紙」スペシャルムービー公開中

「つたえたい、心の手紙」を読んだ鉄拳さんが、手紙に綴られた今は亡き家族との厚い絆をパラパラ漫画で再構成。

ー 新作 第2弾 ー

息子から、今は亡き母への手紙「母のサポーター」

ー 2016夏公開 第1弾 ー

娘から、今は亡き父への手紙「お父さんは愛の人」

「つたえたい、心の手紙」とは?

「つたえたい、心の手紙」は、亡くなった大切な方へ向けて、生前伝えられなかった想いを“手紙”として記すことで、悲しみを乗り越えるきっかけになれば……という願いのもと、2008年より毎年実施している作文募集の取り組みです。

私たちがご葬儀のお手伝いをさせていただくなかで、ご遺族の方々が伝え切れなかった想いを手紙に託し、お柩に納められる光景をよく見かけることがありました。後悔や感謝に満ちたそのような手紙には、本人だけでなく、読んだ人が大切な方々との絆を再確認し、愛情を持って前向きに生きる気持ちを持たせる力がある、それを皆様にお伝えすることはできないだろうかとの思いから始まり、ここ数年では1000通を超えるお手紙を寄せていただく取り組みとなりました。

鉄拳さんからのメッセージ

原作者のお手紙を読ませてもらった時に大切な思い出の1シーン、1シーンが見えてきました。
それを僕なりにパラパラ漫画で表現させていただきました。
良い思い出となっていただければ幸いです。皆様も是非ご覧ください。

【くらしの友より】鉄拳さんへの依頼にあたり──

私たち、くらしの友がグリーフケアの一環として実施している「つたえたい、心の手紙」の活動は、今年で9年目を迎え、応募総数も13,000通を超えました。応募くださる方々の、大切な人へ伝えられなかった想いの手紙は、“何気ない日常の一コマが、かけがえのない時間であった”ということを、私たちに教えてくれます。
近年、各地で災害などが発生した際に“絆”といった言葉を耳にしますが、そうした有事の際だけでなく、何でもない日々の暮しの中でこそ、家族や周囲との“絆”を考えるきっかけを持ってもらいたい──、そのような想いから今回「つたえたい、心の手紙」のパラパラ漫画化を鉄拳さんへお願いしました。
この動画をご覧いただくことで、多くの方に家族や周囲の大切な方々との“絆”を考えるきっかけとなれば幸いです。

■動画の元になったお手紙はこちら

息子から、今は亡き母への手紙「母のサポーター」開く

依田 太 様 54歳

父が2000年に倒れてから、少しずつ身体が不自由になる中、母は自分よりも大きな父を一人で背負って、階段の上り下りを一人で担当していました。私が、帰省した際に母に「僕がやるよ」と言っても、母は笑いながら「大丈夫、大丈夫。あんたがぎっくり腰にでもなったら大変だからね」と言って、大きな父を器用に背負って、階段の上り下りをしていました。

そんな母が、父をデイサービスに送り出し、その後、慌てて自転車で買い物に行く時に、信号無視の左折するダンプカーに巻き込まれて、帰らぬ人となりました。

当日の朝、いつものように母に電話して父の様子を尋ねました。母は、「何も変わりがないよ」とのことでした。僕は、母に「父を背負っての階段の上り下りで身体が痛いところはないの。無理しないようにね」と話しました。母は、いつものように明るい声で、「大丈夫、大丈夫。肩なんか昔から一度も凝ったことがないから大丈夫」と笑っていました。母と話をしたのは、それが最後でした。その3時間後、私が病院にたどり着く前に、母は天国に旅立ってしまいました。

その後、父に母が亡くなったことを伝えたこと、周りの人たちの嘆きや悲しみは忘れることが出来ません。

葬儀が終わり、母の使っていた箪笥(たんす)の引き出しの一つを開けると、そこには入りきれない様々なサポーターがあふれるようにしまってありました。

その引き出しを持ったまま、私は涙が止まりませんでした。母の辛かったであろうことや、出来損ないの息子としてのふがいなさが身に染みて、引き出しをしまうことも出来ませんでした。母が私にいつも「大丈夫、大丈夫。肩なんか昔から一度も凝ったことがないから大丈夫」と言っていたのは、嘘だったのです。私に心配をかけまいと、肩や膝などの痛みに耐えて、父を背負って階段の上り下りをしていたのです。

私は、そんな母の辛かった状況を理解せず、母の「大丈夫、大丈夫」という言葉を信じていました。本当は、分かっていたのかも知れませんが、遠くに暮らす長男として、何もできないことを母の、「大丈夫、大丈夫」の言葉で安心させて貰(もら)っていたのかも知れません。

私が天国に行く時には、母のサポーターが引き出しに山のようにあった話を笑い話として、母の肩のマッサージを一杯一杯、ゆっくりとしてあげようと思います。ありがとう、お母さん。本当に、ありがとう。

娘から、今は亡き父への手紙「お父さんは愛の人」開く

樋口 淳子 様 48歳

お父さんは愛でできている。小さい頃から、そう思いよったよ。

私が小学校の頃、尿検査でおしっこを入れるしょうゆ入れみたいなのの赤いふたが無いって大騒ぎしたことがあったやん。私がわあわあ泣きよったら、お父さん、「淳子ちゃん、泣かんでよか」ってどっかからコルクを持ってきて、削り削り入れ物に合わせてふたを作ってくれたもんね。なんか妙な形やったけど、おしっこがこぼれんようなちゃんとしたふたやった。次の日一人だけコルクのふたで検尿を出したけど、恥ずかしいやら自慢やら。優しかったあ。お父さんは。

中学の技術の課題、防犯ブザー覚えとう? 不器用な私は作れるはずもなく、結局お父さんが徹夜で作ってくれたね。寝ぼけた私は、ブーブー音が鳴る度に、「うるさい!」って文句言いよったらしいね。朝になって防犯ブザーが出来上がっとうのを見て、ごめんなさいって気持ちでいっぱいやったとよ。でも、今思えば、お父さんもあんまり器用な方じゃなかったね。評価2やった。

私が離婚を決めたときも、何も言わず何事もなかったように、全て受け入れてくれたね。親不孝な娘やんね、私。父親のいない子を産む決心をした時もそう。穏やかに、いつもと同じ笑顔で私たちを守ってくれた。それなのに、お父さんの優しさが辛くて、ちゃんとありがとうって言えんかった。

だから、お父さんの認知症が進んで、夜中にトイレに連れて行ったりお尻を拭いてあげたりするようになった時、涙が出るほど嬉しかっとよ。お父さんは何度も「ごめん」って言いよったけど、私は喜びで胸が震えるほどやった。やっと恩返しができるっちゃもん。でも、ほんの短い期間の介護生活の後、病院のベッドで眠り続けて、そして逝ってしまったね。私になんちゃって介護の思い出を残して。私の罪悪感を少しでも軽くしようと思ったっちゃろ? お父さん。

どこまでも優しいお父さん。お父さんは大きな愛の人。私もお父さんみたいな愛の人になるけんね。だって、お父さんの愛から生まれて愛で育った娘やもん。

■合わせて読みたい他のお手紙

娘から、今は亡き父への手紙お父さんへ開く

八木橋 広美 様 24歳

お父さん、私は前よりも少し、料理がうまくなったよ。

あの日の事を覚えていますか。私が昼食を作っていた時。「お父さんのは?」と言われ、私の放った言葉。「自分で作れば」それ以来、ほとんど目を合わせることもなく、会話することもなく、お父さんは帰らぬ人となってしまいましたね。

いつからだろう。私は何年も「お父さん」なんて呼んでいません。なんでだろう。「お父さん」って呼ぶのは恥ずかしかった。お父さんとお母さんが離婚してから、どうしていいかわからなかったあの時の私は、結局どちらにも背を向けて、世界中で一人ぼっちになってしまった気がしていました。お父さんとまともに話したのは何年前かな。病気にむしばまれていくお父さんに、やさしい言葉ひとつかけてやれなかった、ばかな娘です。

本当は言いたいことが沢山あった。言わなければいけないことが沢山あった。ありがとうとか、ごめんなさいとか。簡単な言葉がどうしても言えなかった。反抗期が、長すぎたんだ。

お父さんとした最後のケンカ。お父さん。あの時ね、お父さんに料理作ってあげたくなかったんじゃないんだ。あの時のチャーハン、正油を入れすぎちゃったんだ。今更言っても、遅いけど。

私は世界で一人ぼっちじゃないって、本当はわかってた。今、思い出したんだ。仕事の帰りが遅い私を、いつも無言で待っていてくれた。私が恐がりな事を誰よりも知っている。「はやく寝れば」なんて言って、ごめんなさい。もう、家に帰っても、居間に明かりがついていない。お父さんは、死んじゃったんですか。

葬式では、泣かなかった。だって、ケンカしてたんだもん。

お風呂場で、思いきり泣いた。だって、悲しいんだもん。

私は、お父さんからの愛をうけ、お父さんが生きたかった今日を生きます。そして、今いる私の家族を大切にします。いままで育ててくれてありがとう。本当は、ずっとずっと伝えたかった。

孫から、今は亡き祖母への手紙一緒に泣いて、一緒に笑って開く

髙森 美由紀 様 33歳

バッチャンが逝ってから十年経ちました。忙しい両親に代わって私の面倒を見てくれてとても感謝しています。

生きているときはどうしてでしょうね、お礼を伝えられなかったんです。

私が友達と仲違いしたときは一緒に悩んでくれたし、先生に叱(しか)られたときは「おめがどっただに叱られでもバッチャンはおめの味方だ」と言ってくれました。

大きい声で美空ひばりを歌い、弁当を持って山菜採りにも行ったね。 運動会で一番大きな声でビリッケツの私を応援してくれたバッチャン。生徒よりも目立ってました。

死にたいと泣いたとき、バッチャンは私を、小さい頃のようにぎゅうっと抱きしめて、左右にゆっくり揺すりながらあやしてくれました。そのとき気づいたんだ。バッチャンはいつの間にか私より小さくなってたって。それでもその懐(ふところ)はふっくらと温かいままでした。

「辛ぇなあ、へづねぇなあ。バッチャンなんもしてやれね。んだどもおめば一人こで泣がせね。おらも一緒に泣ぐ」

バッチャンは私以上にポロポロ涙を流したよね。

バッチャンが作るおかずは根曲がり竹の酢味噌和えとか、フキの炒(いた)め物なんかばっかりで、私は内心不満だったけど、今になってあの味が懐かしいです。作り方を聞いておけばよかった。もうバッチャンの味は一生食べられないんだね。どんなに高いレストランへ行っても、世界の果てまで行ってもそこにバッチャンの料理はないんです。私が好きだったのはソフトボールほどもある真っ黒いおにぎり。あんずのシソ漬けが梅干替わりに入っていたやつ。ああ、そのあんずのシソ漬けの作り方も知らないままです。

一緒に泣いて、一緒に笑ってくれたバッチャン。私ね今歩き出したよ。

ようやくやりたいことと、これからの見通しが立ってきました。長く心配かけたね。そりゃ順調じゃないけど、辛いときはバッチャンの笑顔と言葉を思い出してケッパってます。

「人生は色々あるすけ面白ぇんで」

まだまだこれからも傍にいて、一緒に泣いて、一緒に笑ってね。

息子から、今は亡き父への手紙父親の気持ち開く

古垣内 求 様 50歳

父さん、今日息子を駅まで見送りに行ってきました。三十年前の僕と同じように。あの日、父さんと母さんが僕を見送りに来てくれましたね。今朝、駅で息子を見送っていると、あの日のことが目に浮かんできました。いそいそと出発準備を手伝ってくれる母さんと、なぜか無口な父さんの姿を。

二キロ離れたバス停まで二人で見送りに来てくれましたね。覚えています。

三人で歩きながら父さんだけがひとことも喋(しゃべ)らず難しい顔をし続けていました。大阪に行くのだとワクワクする僕の気持ちを少しも分かってくれないと腹が立ちました。

バスの窓を開け、手を振りながら「じゃ行ってくる」と言うと、父さんはひとこと、「今度いつ帰るんや」と、聞きました。

「夏休み」と答えると「そうか」と、ひとこと言ったきりでした。

あのとき、発車したバスの中でひとり考え続けました。なぜ、父さんが今日機嫌が悪いのかと。今日だけでなく、僕が大阪に出て行くと決めた日から、父さんが無口になったと気付きました。

あのときの僕と同じように、今度は息子が東京へと巣立ちました。もう大阪に戻る気がなさそうです。考えてみると、この一カ月、僕もあのときの父さんと同じように不機嫌だった気がします。

改札に入る息子に

「今度いつ帰るんや」と、思わず聞きました。

「多分、夏休み」

三十年前、バス停で交わした会話です。

あの日、僕が大阪で勤め結婚して二度と田舎に戻って来ないと分かっていたのでしょう。僕も今朝息子を見送り、初めてあの日の父さんの気持ちが分かりました。

明日から息子は東京の人となるでしょう。でも、仕方ありません。昔、両親を田舎に残して一人息子が大阪に出たのですから。

少し気難しい父さんの傍(そば)に優しすぎるほどの母さんが居てくれて救われました。息子もいまきっとそう思っているに違いありません。今年のお盆には、妻と二人でお墓参りをさせてもらいます。

その他、過去の受賞作品の一部がこちらからご覧いただけます。

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鉄拳(てっけん)プロフィール

1997年にお笑い芸人・鉄拳としての活動を始め2007年9月、吉本興業へ移籍。番組の企画でパラパラ漫画の制作(競作)に挑み、左右に揺れる振り子の中に夫婦の半生をマジックペンで描いた『振り子』を発表。その作品がYouTubeにアップロードされると、日本国内のみならず海外を含めて一躍注目を集める。これを機に、現在はパラパラ漫画の制作を中心に活動を行っている。