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第8回受賞作品

平成27年5月1日~10月30日までの期間に募集しました、第8回「つたえたい、心の手紙」は総応募数1,223通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。
今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。

金賞

ロッキーと俺開く

山口 達也 様 36歳

俺の中には今もロッキーがいる。数学の教師で陸上部の顧問で二十七歳の冬に死んだ。俺が中三の時だ。交通事故だった。あれからもう二十年経つけれど、今でも十一月十三日が来ると「あぁ、今日はロッキーの命日だ」と思う。俺の人生の目標は今もあんたで、毎年毎年「まだまだだなぁ」と思う。でもどうにか一歩ずつでも近づいてゆきたい。今年はタバコも止めたし。

毎朝の数学の小テストが俺たちの学年の日課だった。あんたの授業は情熱的で、多分他の先生だったら皆あんなに数学を勉強しなかったと思う。「宿題を忘れた二人のうち、工藤は今、時速何キロか?」。校庭を走る工藤と田中をクラスみんなで窓から見てたけど、今それを教師がやったら絶対クビだよな。試験の解答が「無し。その条件に当てはまる数は存在しない」というのもあった。学年で誰一人解けなかった。0÷0を電卓で計算するとエラーが出る事もロッキーが教えてくれた。犬のウンコを右足で踏んでしまった時は、左足でも踏めば両方同じになってチャラになると言っていたロッキー。よその中学の職員対抗バレーボール大会に社会の先生と一緒にインディアンの格好で乗り込んでいったロッキー。俺たちはロッキー、あんたの事が大好きだった。

俺たちの学年は皆、進学した高校で不思議な経験をした。「なんでこの先生は、中学の授業をもう一度やってるんだ?」。どうりで難しかった訳だ。高校の問題やってたんだから。

卒業式の教頭の言葉を今でも思い出す。「皆さんに亡くなられた岩本先生からの最後のプレゼントがあります。先日の全市一斉の学力テスト、我が二条中学校が数学でトップでした。立命館、京都教育大付属、同志社、すべて抑えてトップでした。おめでとう!」。その瞬間、男子は吠えて、女子は泣き崩れて、鳩は飛び立って、大騒ぎだった。

今でも「どっちを選ぶか」とか「どっちに進むか」とか考える時に思うのは「こんな時ロッキーならどうするか?」だ。

俺の中には今もロッキーがいる。

銀賞

母のサポーター開く

依田 太 様 54歳

父が2000年に倒れてから、少しずつ身体が不自由になる中、母は自分よりも大きな父を一人で背負って、階段の上り下りを一人で担当していました。私が、帰省した際に母に「僕がやるよ」と言っても、母は笑いながら「大丈夫、大丈夫。あんたがぎっくり腰にでもなったら大変だからね」と言って、大きな父を器用に背負って、階段の上り下りをしていました。

そんな母が、父をデイサービスに送り出し、その後、慌てて自転車で買い物に行く時に、信号無視の左折するダンプカーに巻き込まれて、帰らぬ人となりました。

当日の朝、いつものように母に電話して父の様子を尋ねました。母は、「何も変わりがないよ」とのことでした。僕は、母に「父を背負っての階段の上り下りで身体が痛いところはないの。無理しないようにね」と話しました。

母は、いつものように明るい声で、「大丈夫、大丈夫。肩なんか昔から一度も凝ったことがないから大丈夫」と笑っていました。母と話をしたのは、それが最後でした。その3時間後、私が病院にたどり着く前に、母は天国に旅立ってしまいました。

その後、父に母が亡くなったことを伝えたこと、周りの人たちの嘆きや悲しみは忘れることが出来ません。

葬儀が終わり、母の使っていた箪笥の引き出しの一つを開けると、そこには入りきれない様々なサポーターがあふれるようにしまってありました。

その引き出しを持ったまま、私は涙が止まりませんでした。母の辛かったであろうことや、出来損ないの息子としてのふがいなさが身に染みて、引き出しをしまうことも出来ませんでした。母が私にいつも「大丈夫、大丈夫。肩なんか昔から一度も凝ったことがないから大丈夫」と言っていたのは、嘘だったのです。私に心配をかけまいと、肩や膝などの痛みに耐えて、父を背負って階段の上り下りをしていたのです。

私は、そんな母の辛かった状況を理解せず、母の「大丈夫、大丈夫」という言葉を信じていました。本当は、分かっていたのかも知れませんが、遠くに暮らす長男として、何もできないことを母の、「大丈夫、大丈夫」の言葉で安心させて貰っていたのかも知れません。

私が天国に行く時には、母のサポーターが引き出しに山のようにあった話を笑い話として、母の肩のマッサージを一杯一杯、ゆっくりとしてあげようと思います。ありがとう、お母さん。本当に、ありがとう。

義母への詫び状開く

田平 八重子 様 61歳

お義母さん、もうそちらの生活に慣れましたか。こちらは皆元気に暮らしています。

あなたがいなくなって、もう五年の月日が流れました。

あなたの突然の旅立ちに、家族皆しばらくは悲しむことさえ忘れ、何が起きたのかまったくわからない状態でした。

あなたが歩けなくなり、介護が必要になって、たった一年で逝ってしまうなんて誰も思っていなかったからです。

私は、仕事にかまけて、あなたのことは殆どお義父さんに任せきりにしていました。もっともっとそばにいて、背中や足をさすってあげたり、話をしたり、あなたの喜ぶことをしてあげれば良かったのに……。本当にごめんなさいね。今も、後悔ばかりの毎日です。

あなたには、娘がいなかったせいもあり、私を実の娘のように可愛がってくれましたね。おかげで、嫁姑問題などとは無縁でした。

お義母さん、あなたに感謝することは沢山あるのですが、一番心に残っているのは、長男が生まれた時のことです。

あの年は残暑が厳しく、八月も末だというのに、最高気温が三十五度近い日々が続いていましたね。そんな中、あなたは私が入院している一週間、毎日、冷たい果物を“タッパー”に入れて持ってきてくれましたね。自転車に乗れないあなたは、片道三十分近くかかる道のりを毎日、日傘を差して歩いてきてくれました。あの時の果物のおいしかったこと。

小さな身体のあなたのうしろ姿は、日傘にすっぽりと隠れて、まるで日傘が歩いて帰っていくようでした。私は、病院の窓から、あなたの姿が見えなくなるまで、「ありがとう、お義母さん」と心の中で言いながら見つめていました。

私は一度だってあの時の事を忘れたことはありません。それなのに、ありがとうの言葉も言えないまま、あなたは逝ってしまいました。

今度生まれてくる時は、お義母さん、あなたの娘になって生まれてきてもいいですか? そして今度こそ、親孝行させて下さいね。

あなたへ開く

佐藤 せつ子 様 59歳

震災から、4年7ヶ月が過ぎました。

仏壇のあなたの写真を見ながら「どうしてここに飾られているのだろう」と不思議に思うことがあります。何年過ぎても、その気持ちは変わることがないと思います。あなたのそちらでの生活が平穏であることだけを願うばかりです。

今回はあなたに報告することがあり、手紙を書いています。私、南三陸町へ帰る決断をしました。困難なことがたくさんあると思いますが、いつかあなたに逢えたとき、「頑張ったな。ありがとう」と言ってほしくて決めました。

抽選のくじを引く時、あなたの形見の時計に祈ったのです。私達の母校の近くに出来る防災集団移転の土地です。見事当選しました。あなたが後押しをしてくれたと信じています。

震災の数日後、武彦と2人、あなたを探しまわったときは、もう二度と南三陸町には住めないと思いました。海が恐かったのです。

でも、仙台で暮らしていると、なぜか海が見たくなるのです。恋しいのです。今まで悩んでばかりで、「このまま仙台にいた方が生活が楽なのではないか」と。自分の気持ちに正直に向き合ったとき、やはり南三陸町へ帰りたい気持ちが強かったのです。

新しい街づくりに参加したい。協力したい。私にできることから、一歩ずつ前に向かって進んでいきたいのです。

この4年7ヶ月、無駄に過ごしてきたつもりはありません。孫育てに参加させてもらいました。明奈・尊、そしてあなたの知らない結・顕、4人の孫達の成長を、いつかあなたに逢えたとき、いっぱい、いっぱい、おはなしをしますね。

家が建つまで、あと1年先か、2年先かわかりませんが、お父さん・お母さん・あなたの位牌を南三陸町へ連れて帰ります。

クラゲさん、こんにちは開く

青屋 恵理子 様 44歳

お父さん。

お父さんが亡くなって早37年の月日が流れましたね。あの時7歳だった私も、お父さんが亡くなった年齢にあと2年で追いついてしまいます。

お母さんが、「あんたたちが悪い事する時は、いつだってお父さんが見ているんだからね」と脅すような育児をしたものだから、神様を信じるよりもよっぽどお父さんの存在を身近に感じながら成長して、今に至ります。

あの日、棺の中で横たわるお父さんの顔を眺めながら、それでも私は『死』というものがよく分かっていなかった。分からなかったけれど、今日を最後に、お父さんとはもう会えなくなるのだ、という事は、なんとなく理解していました。

誰にも言っていないけれど、あの日、私は心に誓った事があります。「お父さんと一緒に過ごした毎日を忘れない」絶対に!絶対に……。お父さんの顔、お父さんと手を繋いで歩いた時の手の感触、お父さんの歌う声。夜眠る前に目をぎゅっと閉じて、心に浮かべました。必死でした。お父さんの記憶が薄れて行くのが、怖くて仕方なかったから。

でも、哀しいかな、37年経った今。私の記憶で再生出来る内容の少なさを、当時の私が知ったならば、カンカンに怒らせてしまうことでしょう。

そんな私の記憶の箱の中で、しっかりと残っているお父さんとの思い出の一つが、お風呂の中でタオルを使って遊んだ「クラゲさん、こんにちは」。工事のお仕事でどんなに疲れて帰って来ても、お風呂だけはお父さんが私達と一緒に入ってくれましたよね。

「クラゲさん、こんにちは。さようなら。クラゲさん、また明日……」
ふざけた調子で歌うお父さんの様子に大喜びだった私達。今、私は同じ事を、もうすぐ7歳になる娘とお風呂の中でやってますよ。お父さんの歌い方を真似ながら。どうやら、クラゲさんがお父さんの形見となって、代々泳ぎ続けそうです。

「クラゲさん、こんにちは、また明日……」
お父さん、ありがとう。お父さん、ずっとずっと大好きよ。

「お父さんに見せてやりたかねぇ」開く

藤野 高明 様 76歳

お父さんが42才の若さで、病気で亡くなってからもう60年余りの年月が流れました。僕は15才でした。妹も弟もいました。お母さんは39才でしたが女手ひとつで私達を育ててくれました。そして88才まで長生きしてお父さんの側へ行きました。

最近、やっと気づいたことがあります。お父さんの命を縮めたのはこの僕では無かったかと。戦争が残した不発爆弾で僕は両目、両手を失いました。小学2年生でした。5才の弟は即死でした。そんな事故から8年後にお父さんは死にきれない思いを残しつつ旅立たねばならなかったのですから。

お母さんは苦しい時、悲しい時にお父さんのことを口にすることはありませんでした。しかし嬉しい時、大きな喜びを感じた時などには「お父さんに見せてやりたかねぇ」と言って声を詰まらせることがありました。それは僕の人生の中で三度ありました。

最初は20才の時でした。13年間も学校に行けなかった僕が盲学校の中学2年生として福岡から大阪に出発する日のことです。詰襟の学生服に身を包み、夜行列車で母と二人、応援してくれる人達に見送られての上阪でした。

二度目は34才になる僕が、盲学校の社会科教員として採用され、たくさんの人に祝賀会を開いてもらった会場でのことでした。盲学校から大学に進みようやく手にした教職の道でした。

そして三度目は35才の時、娘が生まれ、この僕が「人の親」となった時のことです。59才のお母さんが孫の裕美子と僕を見比べながら呟いていました。「お父さんに見せてやりたかねぇ」。

お母さんの声は、耳にも心にも残っています。僕も喜寿の祝いをしてもらう年齢になりました。たまにお父さんの夢を見ることがあります。嬉しさと懐かしさを感じる夢です。 確認ください。元原稿では示偏に見えるものですから、念のため。

佳作

おじいちゃんのスーツ 城戸 楓花 様
銭こ心配すんな 髙田 外亀雄 様
ごめんね、おじいちゃん 芹澤 麻衣子 様
ありがとう 黄野 春霞 様
母とつなぐ手 梅迫 民愛 様

入賞

お父ちゃんの優しさ 原田 敬子 様
お義父さん、平和をありがとう 岡部 晋一 様
ごめんね、おばあちゃん 湯浅 範子 様
十分休んできてね 髙田 忍 様
お父さん、ごめんなさい 小林 孝俊 様
最後のことば 感王寺 美智子 様
両親のいない秋 オルソン 予史江 様
幸せをありがとう 石田 守子 様
私のマザーテレサ 本田 よう子 様
お父さんは愛の人 樋口 淳子 様
見て見て母さん 川田 真美 様
答えにたどり着くまでの計算式 山下 菜香 様
いつまでも私のおばあさんでいてね 清水 松子 様